仏涅槃の悲嘆の情景を描く画図を仏涅槃図(略して涅槃図)といい、2月15日の涅槃会(常楽会ともいう)の法会に奉縣される。日本における最古の記年銘を持つ涅槃図は、応徳3年(1086)の高野山金剛峰寺所蔵のものである。
さて本図をみると、石川県羽咋市妙成寺に所蔵される長谷川等伯筆の涅槃図との類似が指摘されよう。
立ち昇る三筋の雲の形、横たわる釈尊の態様と衣文色彩、宝台の型式・装飾、雲に乗って飛来する摩耶夫人、沙羅の樹の枝ぶり・葉や花の位置、会衆の人数・配置・態度・衣文、鳥獣の姿や形、などほとんど同じである。
本図は裏書によれば慶長年中(1596-1614)に大法寺十一世 恵照院(けいしょういん)日述(にちじょ)聖人のために由比勘兵衛平光清(ゆひかんべえ・たいらのみつきよ)という人が描いたものという。これに対し妙成寺の涅槃図は、画中の朱書(卅才)によって、長谷川等伯(このときの号は信春)30歳のとき、すなわち永禄11年(1568)に描かれたとわかる。したがって年代からみれば、妙成寺の等伯の涅槃図がもとになって、大法寺の涅槃図が作成されたと考えられる。
しかし大法寺の涅槃図の作者に擬せられる由比勘兵衛は、裏書によれば明らかに武士であって、絵師のようにはみえない。本図は専門の絵師の手になるものに違いなく、その点で本図の作者および作成時期については、なお検討の余地があるというべきであろう。
なお妙成寺の涅槃図に類似した――ということは大法寺の本図とも共通性が認められるのであるが――作品として石川県七尾市本延寺の慶長14年(1609)の銘文をもつ長谷川等誉筆の涅槃図が知られている。いまこの三幅を比較すると、大法寺の本図と妙成寺本との間の緊密度の方が、本延寺本とのそれよりもずっと高い。
こうした点を考え合わせるならば大法寺の本図の等伯あるいは長谷川派との関連の可能性も、一概にはすてきれないであろう。
本図の表具は藍地に紅白の牡丹をあしらった牡丹唐草文様を、涅槃図の外側の面に描いている(写真は周囲がカットされているのでこの部分は見えない)。いわゆる描き表装である。
描き表装は等伯61才のときの大作、京都市本法寺の大涅槃図にも見られる。本法寺大涅槃図の描き表装は牡丹唐草文様と宝相華唐草文様で、この部分は等伯の筆ではない。
▲このページのトップに戻る四隅に四天王、中央金泥首題(天蓋・蓮台あり)、一段目金泥釈迦・多宝二仏並坐像(宝冠を著けず)、二段目金泥四菩薩立像、左右に不動・愛染、三段目に鬼子母神・十羅刹女、上方に日・月。
日蓮宗には日蓮聖人の顕わされた文字の曼陀羅本尊に勧請されている諸尊を絵画化した絵曼陀羅と呼ばれる画図がある。大法寺の所蔵の本図は、室町時代初期の制作と考えられ、様々な形式の絵曼陀羅の中でも古様を伝える貴重な仏画である。
▲このページのトップに戻る重要文化財「三十番神画像」の解説をご参照ください。
▲このページのトップに戻る本図は日蓮聖人のご生涯を画図にあらわしたもので、四幅対である。こうした画幅は「日蓮聖人伝絵」などと呼ばれることもあるが、ここでは寺伝の通り「日蓮聖人御一代記絵」としておく。
四幅は各幅ともすやり霞をもって七段に分ち、四幅合わせて二十八段の横長の画面を作り出している。一つの画面は一つの項目ではなく、複数の図相を描いている。その場合、順序は右から左へと次第している。
絵は落着いた大和絵の画風で、竜口法難や蒙古襲来、あるいは入滅などの場面でも、ある種の典雅さを失わない。変色がほとんど見られないのは絵具の質が良いためであろうし、また大切に保管されてきたことにもよるのであろう。
日蓮聖人のご生涯を描いた現存最古のものは、京都本圀寺の『日蓮聖人註画讃』五巻である。各巻末に天文5年(1536)の奥書がある。詞書と画図を交互にあらわす絵巻形式で、詞書は円明院日澄聖人、絵は窪田統泰の作である。
これに対し本図は詞書はない。絵のみである。したがって聖人のご生涯のどの場面がどこに描かれているのか、比定することが困難である。『日蓮聖人註画讃』は聖人のご生涯を誕生から入滅、御書目録まで32の項目を立てている。この項目は時代が下るとともに増加するようで、安政7年(1860)に刊行された小川泰堂の『日蓮聖人真実伝』では105の項目がある。
いまその両書をかりに本図を引き合わせてみると、『註画讃』よりもずっと多くの画面があるが、『真実伝』よりは少ないようである。
広島県三原市の妙正寺には、本図に100年ほど遅れて成立した十巻本の「日蓮聖人御一代記絵」が所蔵されている。この妙正寺本も画図のみで詞書はない。本図や妙正寺本の画図のもととなった一代記は存在するのか、今後の検討課題である。
なお、第一幅に大法寺十五世是即院日充聖人の、第四幅に朗師講中の墨書銘があり、ほぼ成立年代を特定することができる。
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